抗がん剤治療のため入院していた60歳代の男性。病気がかなり深刻な状況にあり、体力的に治療の継続は困難と主治医から伝えられた。残されたわずかな時間を大切に過ごすよう助言され、不本意ながら、彼は家に帰ることを決めた。
初めての往診で、初対面の私にいきなり「あと10年生きたい」。私は言葉を失った。
1週間後、さらに病状は悪化。体のだるさと息苦しさが強くなり、彼の表情は厳しさを増した。「退院してから病気がどんどん悪くなる」。やるせない怒りの矛先は私たちに向けられた。
ある日、家族から「大変です。すぐに来てください」と往診の依頼。行ってみると、肩で息をしていてとても苦しそう。幸い少量のモルヒネで苦痛は緩和され、表情も少しずつ和らいでいった。「身体を鍛えるために、近くの公園を1周してきた」と強気な言葉のあとに、ホッとしたような照れ笑いも。彼が私たちに見せた初めての笑顔だった。
厳しい病状は、本人が一番よく分かっているはず。それでも、彼は認めようとしなかった。「あと10年・・・」。私も彼のその思いにとことん付き合ってみようと思った。
往診に行っても、病気の話はほとんど出なかった。家族とりわけ孫のこと、家庭菜園、これまでの人生、そしてこれからの人生。何気ない会話が彼と私たちの距離を縮めた。彼の「家」に対する特別な思いが伝わってくる。
「じいちゃん、ただいま!」ちょうど幼稚園から孫が帰ってきた。孫を抱きしめる彼の目に光るものが見えた。
「元気になりたい」。「それなら病院に行こう」。「いや、家がいい(笑)」。そんなやり取りが自然に出来るようになった。
亡くなる前の日、朦朧とした意識の中で、私の手を握り、いつものように「あと10年・・・」と彼。これまでとちがっていたのは、その後に「ありがとう」が添えられたこと。わずか3週間の付き合いだったが、最後まであきらめず、自分らしさを貫いた彼の姿は私たちの目に強く焼きついた。
〒721-0973
広島県福山市南蔵王町6丁目27番26号ニューカモメマンション102号室
TEL 084-943-7307
FAX 084-943-2277